付録:ケース集(NG→OK)

本付録では、会社組織のエンジニアが高頻度で直面する交渉テーマを、再現可能な手順に落とすためのケースを集める。

ポイントは「言い返す」ではない。相手の利害・制約・判断軸を観測し、合意可能領域(ZOPA)を作るために、条件を設計し直すことである。

各ケースは、次の形式で記載する。

  • 状況(何が起きているか)
  • 利害/制約(何が重要で、何ができないか)
  • NG例(悪い意味での“正論”になりやすいパターン)
  • OK例(合意形成として前に進むパターン)
  • 設計ポイント(スコープ/期限/品質/責任分界/運用負荷など)
  • フォローアップ(合意を実装に落とす)

ケース1:工数見積もりの交渉(「来週までにできるよね?」)

状況

機能追加の依頼に対して、相手が「来週まで」と期限を固定している。要求の背景が言語化されていない。

利害/制約(例)

  • 相手: リリース計画の維持、上長への説明、機会損失の回避
  • 自分(チーム): 品質(テスト/レビュー)、既存作業の継続、障害リスク回避

NG例

  • 「無理です。そんな短期では品質が担保できません」 (正しいが、相手の利害に接続しておらず、代替案もない)

OK例

  • 「来週まで、という期限の背景を確認したいです。『何が起きると困るか』を先に共有してもらえますか」
  • 「期限を守る案として、スコープを2段階に分けます。Phase1(来週)は最小機能+監視/ロールバック、Phase2(翌週)は仕上げ(UX/例外系/テスト強化)です」
  • 「品質を落とすと、来週の先に障害対応コストが発生します。リスクを数行で整理して、意思決定できる形にします」

設計ポイント

  • 期限の“固定”を前提にしない(背景・利害に戻す)
  • 「期限/スコープ/品質」を同時に動かせる状態にする
  • 合意のDone(Phase1で何が満たされればOKか)を明示する

フォローアップ

  • Phase1/2 の合意を Issue/Design Doc に残す(スコープ境界を明文化)
  • 期限の前提(依存チーム/外部要因)をリスクとして記録する

ケース2:スコープ追加(スコープクリープ)

状況

開発中に要求が増えるが、納期・体制は固定されている。

NG例

  • 「それはスコープ外です」 (事実でも、受け手の次の行動が不明確になりやすい)

OK例

  • 「追加要求を受けるなら、何かを落とす必要があります。優先度を一緒に決めましょう」
  • 「“今入れる価値”が高いものは、要件を絞ってPhase1に入れます。そうでないものはバックログに積み、期限後に再評価します」

設計ポイント

  • 追加要求を「議論の対象(バックログ)」に乗せる(口頭のまま流さない)
  • スコープ境界を合意の単位にする(Phase/スプリントで切る)
  • 優先度の判断軸(顧客影響/売上/法令/運用負荷)を明示する

フォローアップ

  • 追加要求の受け入れ条件(期限・品質・運用)をテンプレ化する

ケース3:技術的負債返済の予算/時間確保

状況

機能開発が優先され、負債返済が後回しになっている。事故や遅延は起きているが、意思決定につながっていない。

NG例

  • 「技術的負債が限界です。返済しないと破綻します」 (強いが抽象的で、投資判断ができない)

OK例

  • 「負債を“種類”で分けます。障害リスクに直結するものから優先します」
  • 「1スプリントで返済できる最小単位に分割し、効果測定(リードタイム/障害件数/MTTR等)をセットにします」
  • 「機能を止めるのではなく、各スプリントで返済枠を固定(例: 20%)し、残りで機能開発を進めます」

設計ポイント

  • 負債は“返すか/返さないか”ではなく“どれを/いつ/どの単位で”に落とす
  • 「事業リスク」へ変換する(第1章/第2章の文脈)
  • 成果を可視化し、継続的インテグレーションとして運用する(おわりにの文脈)

フォローアップ

  • 返済バックログを公開し、優先順位の変更ルールを明確化する

ケース4:セキュリティ投資(恐怖訴求に寄らない)

状況

対策の必要性は感じているが、予算・工数がつかない。「そこまで必要か」と疑問視される。

NG例

  • 「危ないのでやりましょう」 (恐怖訴求は短期的に効いても、合意形成の再現性が低い)

OK例

  • 「対策の目的を“リスク低減”ではなく“事業継続”として整理します」
  • 「最小対策(必須)と、追加対策(余裕があれば)を分け、段階導入で合意します」
  • 「運用負荷(誰が、いつ、何をやるか)まで含めて提示します」

設計ポイント

  • 目的→選択肢→条件→運用の順で説明する(第2章の“インターフェース”)
  • 合意のDoneを、監査・運用・責任分界で定義する

フォローアップ

  • 例外処理(期限つき例外、レビュー頻度、解除条件)を文書化する

ケース5:障害対応後の再発防止(責任追及から合意形成へ)

状況

障害後の場で、原因追及が強くなり、学びや再発防止が進まない。

NG例

  • 「それは〇〇チームのミスです」 (正否に関わらず、相手の防衛反応を強める)

OK例

  • 「事実(タイムライン)と解釈(仮説)を分けて整理します」
  • 「再発防止は“行動”で定義します。誰が/いつまでに/どう測るかまで決めます」
  • 「責任の議論は別枠にし、まずは顧客影響と再発防止を合意します」

設計ポイント

  • 感情の熱量が高い場ほど、手順を固定する(第5章の文脈)
  • “再発防止”を、設計・テスト・運用のどこに入れるかまで落とす

フォローアップ

  • ふりかえりログを残し、同じクラスの事故に横展開する

ケース6:他チーム依存の調整(SLO/運用負荷/引き継ぎ境界)

状況

チーム間で責任分界が曖昧なまま、作業だけが進む。運用負荷が不均衡に積み上がる。

NG例

  • 「そっちでやってください」 (境界が曖昧な状態で投げると、関係が悪化しやすい)

OK例

  • 「責任分界(RACI)と、運用の“呼び出し条件”を定義しましょう」
  • 「SLO/エラーバジェットを共有し、どこまでを“受け入れ可能”とするかを合意します」
  • 「引き継ぎのDone(ドキュメント、監視、当番表、オンコール)をテンプレ化します」

設計ポイント

  • 境界を、責任・運用・SLO で定義する(第6章の文脈)
  • “お願い”ではなく“運用可能な契約”に落とす(第2章の文脈)

フォローアップ

  • 依存関係を可視化し、変更時の通知/レビュー手順を決める

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